私達には寿命があり、だからこそ生きていることを大事にしなければならないと思い至るこの頃…。

今のように死が延命操作され、誰も死なないかのような風潮を感じさせる世の中で、命の大切さを実感する感情はどれほど世の中に残されているのだろうかとふと物思う私がいます。

近頃のニュースは伝えます。
見も知らぬ人が自分の命でなく、誰かの命をもって、命が潰えた先を見てみたかったという理由で殺人を犯し、また、予行練習まで強いたいじめで自殺にまで追い込むことに罪悪感を感じない子どもがいたりする事を当然とするかのような現状。今の時代だからとは言えないまでも、死を伝えるということはとても難しく、だからこそ重要だと感じています。

子どもは十歳を待たず、死を理解していると言われています。そんな繊細で柔軟な子供ならではの理解を可哀そうだからという大人の一方的な考えで死という概念から子どもを遠ざける考えもあるようですが、私はかえってその余計な干渉が子供の魂の成長を妨げるように感じてなりません。
遠ざける前に、その子の本質、個性に沿った伝え方を考えることを選べないかと思うからです。

身近な存在の喪失は、大人にとっても子どもにとってもつらく悲しいものです。亡くなっていく命の前で、大人も子どもも一緒に涙を流すことで悲しみを共有することは、生きていることの大切さを共に理解する重要な機会ではないかと思います。

ライフゲージを回復しては生き返るゲームの世界ではないリアルな今を子どもたちと共に実感する事。
そんな事は当たり前だと笑われてしまう話かもしれません。
けれど理解し続けたいと思うのです『死』とはどういうことか、そして生きているということがどれだけ奇跡的なことなのかを…。生きる中で様々な命と出会い向き合うことを恐れないでいてほしい、そして何よりも今、誰のものでもない自分自身が生きている瞬間をつぶさに感じてほしいのです。

本来死は汚れではなく、死者を悼み意気消沈することで一時期気が枯れることで気枯れと言うそうです。
気を枯らしてしまうほど常に死のことばかり考える必要はありません。たまに、でいいのです。例えば風景を見渡したふとした瞬間に、自然界全てに命があってそれぞれの時を生きて、いつかはそれぞれの時を過ごし自然に還るのだろうなぁ…。という感じで。
生きている今を実感するために考える時間を、少しだけ。

そのことがきっと、自分の時間を生きることへ豊かさを与えてくれるのではないかと思うのです。
命を受け取りながら命を繋ぎ、また次の命へ、
豊かな時間を届けたいと願うばかりです。

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